津田恒実(つだ つねみ)投手をご存じでしょうか?
炎のように燃えるギラギラとした闘志で、広島東洋カープで活躍した炎のストッパーと呼ばれた伝説の投手です。
彼は短い生涯を終えていますが、今なおファンの間では生き続けています。
津田恒実投手の意思を引きついてその息子がある計画を乗り出してプロジェクト進行中です。
その計画とはいかに?
また津田恒実投手と妻との慣れ初めや病気についても記載したいと思います。
津田恒実のプロフィール
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津田恒実投手の愛称は「ツネゴン」と呼ばれていました。
座右の銘は「弱気は最大の敵」でした。
もしかしたら少しハートが弱い部分があって、自分に打ち勝とうと言い聞かせていたのかも知れませんね!
津田恒実投手は、生年月日は1960年8月1日です。
山口県都濃郡南陽町(現在は、周南市です。)出身です。
入学した山口県立南陽工業高校では、1年時からエース投手として活躍し、甲子園にも出場しています。
高校卒業後は、社会人野球の協和醱酵に入社します。
社会人野球をへて広島東洋カープに1981年になんとドラフト1位で入団します。
実は、入団時の名前は津田恒美という名前でした。
その後は、名前を恒美から恒実に改名します。
そして、翌年には抑え投手として見事復活し、カムバック賞を獲得します。
津田恒実投手のスピードのすごさとしてこんなエピソードがあります。
なんと後楽園球場との巨人戦で、原辰徳を骨折させたほどの剛速球でした。
1986年9月24日の出来事でした!
しかし、選手として全盛期の時に病魔に侵され、1993年7月20日に永眠します。
このとき津田恒実投手が、32歳でした。
後に津田恒実投手は、元広島の北別府学投手と共に野球殿堂入りします。
広島東洋カープの中でも、まさしくヒーローで、広島市民の中でずっと生き続けているのでしょう!
津田恒実の妻
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津田恒実投手の妻の名前が、晃代(てるよ)さんです。
晃代さんは、九州出身で山口の女子大生でした。
山口でパーテイのコンパニオンをしていた時に、津田恒実投手が晃代さんを見初めたそうです。
最初はなかなかデートまでは出来なかったのですが、
なんとかデートまでこぎつけたもののデート中の津田恒実投手の印象は最悪でした。
しかし、別れ際に言った優しい一言に晃代さんも感じるものがあったのでしょうか。
その後は電話やデートを重ね1987年暮れに結婚します。
津田恒実の息子は?
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津田恒実投手は妻と1男がいました。
津田恒実投手の息子の名前は大毅(だいき)さんです。
1988年生まれで、今年29歳になります。(2017年現在)
大毅さんも幼い頃から野球はやっていたようで、
野球を始めたのは小学校3年生で父と同じピッチャーを務めていました。
九州学院高校から九州国際大学へ進学し、東京国際大学へと編入します。
大学卒業は民間企業に就職し、父と同じようにプロの世界には進めなかったようです。
そして大毅さんは、2016年8月に会社を退職し、父親の偉業を後世に伝えるべくを記念館の設立のためにプロジェクトを立ち上げ奔走します。
実は、大毅さんは、以前は父親に対して同じく投手だった頃は、「津田の息子」であると言われて抵抗があったそうです。
やはり父と比べられるというプレッシャーもありましたし、自分は自分ですからね!
しかし大毅さんは、ちゃんと父と向き合う事も必要と考え、向き合う事で、また何か違ってくるものが見えるのでは?
という事に気付き始めた結論が記念館を作るという事でした。
プロ野球選手の記念館は、全国に既にいくつかあるのですが、実はカープでは初めてだそうです。
是非立派な記念館を作って、親孝行してほしいですね!
津田恒実の病気もチェック!
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津田恒実投手さんは、1990年のシーズン後半ないし終了後あたりから頭痛や食欲不振さらには左手のしびれなどに悩まされるようになります。
1991年には体調不良がさらに進行します。
1991年の4月14日の巨人戦で津田恒実投手の最後のマウンドとなってしまいます。
翌日に病院で診察を受け、検査で判明したのは既に、手術のできない箇所に脳腫瘍が出来ていました。
1991年に闘病生活に入るため、現役を引退します。
努力の甲斐あってか一時は快方に向かっていたものの、1992年を境に病状が悪化します。
そして、1993年7月20日永眠されます。
享年32歳という若さでした。
津田恒実投手の訃報は、日本中がショックを受けました。
当時の様子を覚えているかたも多いと思います。
津田恒実の再婚について!
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さて晃代さんは再婚はしているのでしょうか?
実は再婚はしていないようです。
いつまでも旦那、津田恒実投手の事をずっと思い続けているのでしょう。
津田恒実の今現在
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津田恒実投手の人生は、これまでに何度も書籍化され、映像化されています。
それほどまでに人々の心には津田恒実投手がいるのです。
そして、まだまだ野球人生を貫きたかったその意思半ばで病魔に侵されてしまします。
その無念を報いるためにも津田恒実投手の生きた証を形にし、後世に残すべく動いている人物がいます。
その人物こそが息子である大毅さんです。
当初、記念館を父親の出身地である山口県内に設立予定で、生家をリフォームすることを考えていたそうです。
しかし、津田恒実投手を愛する沢山の人達からの要望もあり、現在は、広島市内に設立を考えています。
大毅さんは、プロジェクトを立ち上げて、設立の資金集めの為クラウドファンディングで募集をしています。
記念館の開館は、2018年7月20日を目標としているそうです。
7月20日と言えば、津田恒実投手の命日にあたる日です。
大毅さんのツイッターによると、ファンディング開始と同時に本人は、プロジェクトをPRも兼ねて自転車で日本一周の旅に出ました。
集まった資金は2017年11月現在では、2000万円を超えているそうです。
目標設定額も増やしていき4500万円までのゴールまで考えているようです。
いかに津田恒実投手の存在が大きいかが解りますね!
最後に
人柄の良さもあってか津田恒実投手はテレビなどで特集を何度か組んだりしていますので、その生き様などをご存知の人も多い事でしょう。
今後はその津田恒実投手の想いを後世に残せるような立派な記念館を作って欲しいと思います。