歴史

岡本太郎の妻と息子と娘について!父母は?若い頃も解説!

本日は3月なのに東京は大雪でした。

休日なのが唯一の救い。平日なら電車が大変な事になったでしょうね!

そろそろ桜が開花し、桜を見に行こう!

と予定していた人も多いのかも知れません。

こういう時は家で、ゆっくりのんびり音楽や読書、芸術的な映画を見るのも良いですね。

 

芸術と言えば色々な芸術家がいらっしゃいます。

その中でも昭和を代表するのが、岡本太郎さん。

太陽の塔という作品はかなり有名で、「芸術は爆発だ」と言うフレーズは一度は聞いたことがあるはずです。

結構有名な方ですが、案外、家族構成は知らない方も多いのではないでしょうか?

  • 岡本太郎さんの妻と息子と娘
  • 岡本太郎さんの父母などの家族に関する情報
  • 岡本太郎さんの若い頃

を中心に解説していきたいと思います。

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岡本太郎の妻と息子と娘について!

岡本太郎の妻は養女!?

岡本太郎さんには、岡本敏子さんといういつも側にいるパートナーがいました。

周りからみれば、妻になりますね。

しかし、

岡本太郎さんはもともと徹底して独身主義者であったそうで、その原因は母親に影響があるそうです。

両親の姿を見て結婚と言うものに嫌気がさしていたからでは?

とも言われています。

その為、岡本敏子さんとの関係は、事実上の妻ではありますが、「養女」と言う関係だったそうです。

岡本敏子さんは、生年月日は、1926年1月1日生まれです。

千葉県出身です。旧姓は平野さんです。

東京女子大学文理学部卒業しています。

1948年岡本太郎さんと出会い、秘書となりのちに養女となります。

2005年(平成17年)4月にお亡くなりになられています。

享年79歳でした。

岡本敏子の甥は空間プロデューサー

ちなみに岡本敏子さん甥に空間プロデューサーの平野暁臣(ひらの あきおみ)さんがいらっしゃいます。

横浜国立大学の工学部建築学科を卒業されています。

岡本太郎記念館館長などをされています。

岡本太郎さんに関する書物も多く執筆したりプロデュースするなど、岡本太郎さんとも非常に密接の関わりがあります。

岡本敏子の息子と娘はいない!?

岡本さんは、事実上妻はいらっしゃるのですが、お子様はいらっしゃいますでしょうか?

残念ながらお子様に関する情報は出てきませんでした。

あまりにも有名人である岡本太郎さんなので、情報が無いという事は、恐らくお子様はいらっしゃらないとみて確実でしょう。

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岡本太郎の父と母について

岡本太郎の父親は漫画家

お父様は漫画家の岡本一平、お母様は、小説家の岡本かの子という芸術家一家に生まれます。

父親の岡本一平は、1886年に北海道函館で生まれたのも東京美術学校に入学しています。

岡本太郎の母親はお嬢様育ち!

母親の岡本かの子さんは、1889生まれ。

かの子さんの実家は神奈川県川崎市高津だったそうですよ。

彼女は、小説家で、歌人や仏教研究家としての顔も持っていました。

お嬢様育ちで、あまり家庭的でなかったそうで、子育てもや家事もそっちのけで作品を作るなどの自由奔放者でした。

また、父親も住む自分の家に若い男を住まわせるなど通常なら理解出来ない事をしていました。

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岡本太郎の若い頃は?

岡本太郎さんのファンの方ならご存知の方も多いかもしれませんが、若い頃をお伝えしましょう。

岡本太郎の生い立ち

まずは岡本太郎さんの生い立ちから説明します。

岡本太郎さんは、生年月日は1911年2月26日です。

星座は 魚座です。

 

川崎市高津区で生まれ、幼少期を青山で過ごしたそうです。

血液型はO型。

弟と妹は2歳で他界されています。

不登校児となって小学校を何度も変わっていたそうで、「太陽」が話し相手だった少年時代を過ごします。

母親からはしつけを受ける事も無かったそうで、学問には興味が無く父親からは、絵を描くということを学んだそうです。

岡本太郎の若い頃

1929年、慶應義塾普通部を卒業し、東京美術学校洋画科(東京芸大)を入学するも半年で中退し、

両親とともにフランスに渡ります。

1929年から1940年まで約10年間フランスで生活をしたそうです。(両親は、1932年に帰国)

フランスですぐにフランス語を覚え、パリ大学哲学科にて美学履修の記録もあります。

(正規学生か聴講生かは解っていません。)

またピカソの作品「水差しと果物鉢」に影響され、「ピカソを超える」事を目標に制作活動にも力を入れそうです。

しかし、1940年にはドイツ軍のフランス侵攻を受け帰国します。

晩年はパーキンソン病という病気を患っていた

様々な作品を世に残した岡本太郎さん。

80歳頃からパーキンソン病を患っていて、1996年1月7日満84歳でお亡くなりになられています。

葬式は行われなかったそうで、お別れ会が開かれたそうです。

芸能人にも影響を与えた岡本太郎

1970年に大阪で開催された万国博覧会のシンボルタワー「太陽の塔」などがありますが、

あまりにも有名ですね。

多くの作品を世に出してきた岡本太郎さんですが、芸能人にも影響を与えました。

お笑い芸人だったジミー大西さんが、岡本太郎さんから手紙を貰い

「画伯ジミー大西」を誕生させるきっかけとなった事も有名な話です。

記念館や美術館は?代表作もチェック!

記念館や美術館

1998年には青山の住居で更に、アトリエ跡でもあった所を岡本太郎記念館として開館し、

翌年に川崎市の生田緑地内にある岡本太郎美術館が開館されました。

この様に今でも多くの人に愛されている岡本太郎さんです。

太陽の塔

岡本太郎さんの代表作と言ったら「太陽の塔」ですね。

この作品は非常にインパクトがあります。

知名度が高い作品でもありますね。

「太陽の塔」は、大阪万博への反発から生まれたことでも知られています。

また太陽の塔の内部に、全長45メートルもの高さの「生命の樹」をつくりだしていることをご存知でしょうか?

明日の神話

また「明日の神話」は渋谷駅にあります。

詳しくは、JR線渋谷駅と京王井の頭線渋谷駅を結ぶ連絡通路にあるのですが、

知らず知らずに通り過ぎている人もいるかと思いますので、今度渋谷に行く際には見てみるのも良いかもしれません。

この壁画は、メキシコシティ郊外の資材置き場に保管されていたんですが、30年以上も放置されていたため、ダメージもひどくそれを復元したものです。

壁画を岡本敏子さんが中心となって復旧活動をし、2006年に修復が完了し、2008年設置されています。

岡本太郎さんを知らばするほどする程、その魅力に引き込まれていきます。

まさに昭和を代表する芸術家ですね。

最後に

いかがでしたか?

岡本太郎さんと言えば、「芸術は爆発だ!」と言うフレーズはあまりにも有名ですね。

一度は聞いた事がある!

と言う人も多いかと思います。

岡本太郎さんについて少しでも知る事ができれば、非常に筆者としても嬉しい事です。

岡本太郎さんの生い立ちはかなり、壮絶だった事は初めて聞いたことも多いのではないでしょうか?

 

川崎に行ったときには「岡本太郎美術館」などを見に行っては、いかがでしょうか?

最寄駅は、小田急線の向ヶ丘遊園駅ですが、バスなどでも行けますが、徒歩でも行ける距離です。

「岡本太郎美術館」は生田緑地にあります。

生田緑地にはそのほか「かわさき宙(そら)と緑の科学館」があります。

中には、プラネタリウムもあり、休日に家族で行くのもおすすめですよ。

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