あなたは歴史は好きですか?
日本の歴史があまり得意でない人も、戦国時代と幕末は好きな人が多いですよね?
ところで戦国時代に活躍した浅井長政の事をご存知でしょうか?
「信長協奏曲」というドラマで高橋一生さんが浅井長政を演じ、あらためて浅井長政の生き方のかっこ良さが注目されています。
しかし、ゲームなどではイケメンともてはやされていますが、肖像画を見るとぽっちゃりしているのでイケメンでは無さそうですね!
おそらくその生き様がかっこよかった為美化されてしまったのでは無いでしょうか?
そんな浅井長政の子孫の現在について気になりますね!また妻のお市その3人の娘や姉についてもリサーチしたいと思います。
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浅井長政の子孫の現在は?
ご存知の通り浅井家は滅んでしまいますが、浅井の血は、娘たちによって引き継がれていきます。
3女の「お江」が豊臣秀勝に嫁いだ後、官子という女の子をひとり出産します。
淀殿(長女の茶々)が官子を引き取って育てますが、後にる九条幸家と結婚します。
その子孫が九条節子であり後の大正天皇のお嫁さまである貞明皇后となります。
その後は昭和天皇や平成天皇にも血は受け継いでいきます。
浅井長政は短い生涯を終えても今なお浅井長政のDNAは引き継がれているという事ですね。
お市と娘
お市さんと言えば、織田信長の妹ですが美人としても有名ですね。さらに聡明であったようです。
実は、お市は、168cmと長身だったようで、浅井長政も170㎝位だったので、当時としては夫婦それぞれが高身長であったようです。
お市は浅井長政と結婚した事により、織田家と浅井家は同盟関係になります。
昔はこういう政略結婚は当たり前だったようですね。
浅井長政とお市とはとてもの夫婦仲が良かったようです。
しかし、浅井家と織田家との同盟が無くなってしまいます。
この場合、普通は実家に戻るのこの時代の常識ですが、お市の意思で実家には戻らなかったようです。
政治抜きの仲のよかった二人は、そのまま夫婦を続けました。
お市と浅井長政との間には、茶々、初、江の3人の姫がいました。
その3姉妹が美人だという事は時代劇などでも分かる通り有名な話ですよね!
母親が美人であれば大体その子供も美人の確率が高いですからね!
小谷城が落とされ、お市と娘たちが救出された後は、清州城で大切にされ、贅沢に暮らすことができました。
もしかしたらこの時が母子にとって平和な時だったのかも知れませんね!
お市は小谷城落城後の9年後 柴田勝家と再婚します。
長女の茶々はその後豊臣秀吉の側室となり、豊臣秀頼が生まれます。
茶々はのちに淀殿と呼ばれて日本一の女性と呼ばれるようになったそうです。
次女のお初は、京極高次と結婚します。
ちょっと複雑ですね!
京極マリアの長男が京極高次です。
京極マリアの弟が浅井長政になります。
そしてお初は浅井長政の子どもになります。
つまり、お初と京極高次との関係は、いとこ同士の結婚で、残念ながら二人の間にはお子さんは生まれなかったそうです。
やはり血縁が近いと子供も出来にくいということでしょうか?
お江は、豊臣秀勝、秀吉公の甥、そして3度目の結婚で、徳川秀忠と結婚しています。
徳川秀忠とは、2男5女に恵まれました。
長男があの徳川家光です。
正室が将軍を生んだのはお江1人のみだそうです。
お江の娘の和子は、後水尾天皇と結婚して後の明正天皇を生みます。
姉もリサーチ!
浅井長政の姉は京極マリアという名前です。
彼女は、1542年生まれで、浅井久政の娘ですね!
京極高吉に嫁ぎ、2男3女がいます。
名前を聞くとハーフ?と間違われるかも知れませんが、実はキリシタンだったようです!
本名は「お慶」で、洗礼名は、「ドンナ・マリア」です。
熱心なキリスト教徒だったようです。
プロフィール
さて浅井長政のプロフィールについて記載したいと思います。
浅井長政って聞いたことはあるが、いまいちに何をした人か解らないという人も多いかもしれません。
もし織田信長を裏切らなければ、歴史はかなり変わっていた事でしょう!
歴史にもしもという事は存在しませんが、それだけ彼の存在は織田信長にとっても大きかったのでしょうね。
浅井長政は、180cmを越える長身であったそうで、若くから有能な武闘派の武将で、とても強かった事でも有名です!
また、浅井長政といえば、信長の妹であるお市を妻にした事でも知られています。
ちなみにお市の再婚相手は柴田勝家です。
さて、そんな浅井長政ですが、戦国時代の武将のひとりで北近江を治めていました。
北近江はもともと肥沃で、農作物もたくさん取れていた土地でした。
浅井長政は平和を愛し、民の意見を良く聞き、横の繋がりによって国を治めてきたそうです。
農民側からの信頼も厚かったようですね♪
その性格は優しい誠実な男で領民にも慕われていました。
それは浅井長政が上から抑えるのでは無くある意味農民と対等に接していたからです。
それが浅井長政の強さの原動力となっていました。
浅井長政は浅井家3代目当主ですが、その父親は浅井久政となります。
浅井長政の血液型は不明です。
幼い頃は「猿夜叉丸(さるやしゃまる)」と呼ばれていたそうです。
名前がかなりインパクトありますね!
15才で元服して「賢政(かたまさ)」と名づけられた後に、17才で信長に憧れて「長政」に改名したそうです。
昔の人は随分名前が変わったのですね!
生誕は1545年ですが、29歳の若さでこの世を去ります。
あの信長の妹お市を妻にもったことでも知られています。
滋賀県の小谷城(おだにじょう)に住んでいたらしいです。
実は、浅井長政の最後の戦いの舞台になったのがこの城です。
小谷城は落城しただけにほとんど残っていませんが、所々にその面影が残っています。
小谷城の場所は、滋賀県長浜市湖北町です。
城跡は国の史跡に指定されています!
かなり強固な山城で、信長も無理に攻めることは断念し、近くに城を作るなどして包囲作戦を取るしかなかったそうです。
それもそのはず日本五大山城のひとつに数えられる程、堅固な山城だったそうですよ!
浅井家は越前の朝倉家との同盟がありました。
浅井長政の父親の時から朝倉氏とは厚い信頼関係があり、朝倉氏にも恩があったのです。
しかも信長が条約があるにもかかわらず黙って朝倉氏を攻めてしまったというのも浅井氏にとっても腹が立つ事だったらしいです。
浅井長政は、朝倉家と織田家どちらを選ぶか選択に迫られます。
結局、織田家を裏切り朝倉氏の味方にします。
「姉川の戦い」で織田信長に敗戦します。
最初、織田信長は浅井家の裏切りに気付かなかったそうですが、ではなぜ裏切りに気付いたのでしょうか?
それは、お市が送った両端を縛った小豆袋で裏切りに気付いたらしいです。
いわゆる袋のネズミ状態ということです。
そして結局織田信長に小谷城は包囲され、浅井家は滅んでしまうのです。
最後に
いかがでしたか?
浅井長政自体は短い生涯で悲劇の武将という印象も強いですが、3人の姉妹とその子孫がすごすぎるのです。
その三姉妹によるDNAが現代にも引き継がれているというのも驚きですね。
今後の歴史を勉強する上で浅井長政氏のみならずその関係人物がを知る事で歴史はさらに面白い発見がある事が解りますね!