歴史に詳しくないあなたでも、
歴史の教科書で習った事を思い返してみると「応仁の乱」というキーワードには「ああ、何となく覚えているかも?」と
思い出すのではないでしょうか?
歴史背景がどうだったか?等は忘れてしまっていても、
この言葉だけは覚えているはずです。
その歴史的にもとても有名な「応仁の乱」で中心人物ともいえる「畠山義就」という人物がいます。
知っているようでいまいち解からないこの彼に今回は迫ってみたいと思います。
畠山義就の読み方は?何した人?
畠山義就の読み方ご存知でしょうか?
はたけやま よりなり もしくは よしひろとお読みします。
はたけやまぎじゅう と間違えて読んでしまった人いませんよね?
「応仁の乱」の中心人物・・とは言っても、
よほど歴史が大好きな人でなければ、
いまいちぱっとせず全く何も浮かばないでしょう。
そもそも「応仁の乱」とは一体どんな戦いだったのでしょうか?
おさらいをしてみようと思います。
「応仁の乱」とは、戦国時代に突入する実際のきっかけとなった非常に歴史深い戦いです。
しかし、その乱はメジャーかマイナーか?
というと名前だけは良く知られていますが、
案外内容的には内乱という形の戦いでした。
しかし、実はこの戦いはとても日本の歴史上の出来事において、かなり重要な意味を持った戦いだったのです。
1467年に京都を中心として、東西勢力に分かれ戦いを行いました。
時代は室町時代、なぜこの戦いが起こったかというと理由は簡単で「後継者争い」が発端です。
しかも、この戦いに費やした時間をきくと思わずあっけにとられる長さでびっくりします。
何と11年も戦っていたそうです。
11年と言えばおギャーと泣いている赤ちゃんが小学5,6年生になっている、
そんな月日の長い間ずっとこの乱に時間を費やしたというのですから驚きですよね!
しかも、そんなに長い間戦っていて、結局、決着がつかぬというお粗末な結果となったようです。
畠山義就はこの訳ありな戦いである「応仁の乱」で最後の最後まで戦い続けたという意味で中心人物となった人でした。
そもそも、「応仁の乱」の最大の原因ともいえるのは畠山氏の家督争い、
つまり畠山義就がこの世に生を受けた事が発端になったと言っても過言ではありません。
今でいう関西方面の守護大名として名をはせていた守護大名であった足利一族である畠山家は、
細川家、斯波家と共に御三家という立場で交代制で管領職に就いている
由緒ある家柄として有名でした。
管領職とは何か?
一言でいうと将軍の執事、サポートデスク的な役割を果たしている重要なポジションです。
しかし御三家あるという事は、ライバル視は当たり前の世界。
常にお互いに監視体制、気を緩める事もままならない状況に御三家とも身を置かれていました。
さらに、第3代将軍の足利義満は、その御三家に先を越されない様に常に御三家同士を競わせ、
そのパワーが表に向く事のないようにコントロールをしていました。
そんなあざとい3代目将軍の子孫だけあり、第6代将軍の足利義教もまた一癖も二癖もある将軍でした。
畠山義就の実父である畠山持国もとても苦労をしていました。
その辺の時代に、畠山義就はこの世に生を受けました。
12歳の時、義就は、いきなり持国に後継者として任命されます。
最初にその大役を任命されていたのは、畠山義就の弟の持冨でした。
最初に自分が後継者として認められていたにも関わらず、急に撤回されてしまった為、
納得が行くはずがありません。
腑に落ちぬまま、そのままの状態で時を過ごします。
その後継者争いの中での事でいとこ同士でいがみ合い、
そこに、細川勝元や山名宗全らが参戦したりともはやぐちゃぐちゃの展開です。
結局、最後の最後、なにも残さぬ状態で「応仁の乱」は終息を迎える事になります。
しかし、この乱が終わった後も、いつまでたっても義就と政長のにらみ合いは続きました。
いつまでもいつまでも最後までしつこくねばっていた畠山義就と長政兄弟。
結局、この戦いで何も得られぬままずるずると戦い続けていました。
「応仁の乱」は、細川勝元や山名宗全が没後に、息子世代が西軍が東軍に負ける形で終わります。
結局はその後も、しつこく畠山家2名の問題児達が争い合っていた為に、
長政の守護国の山城国の農民らのイライラが爆発し、一揆をおこして畠山家両家を排除したそうです。
しかしその後もしつこく戦いを続けて、ついに、畠山義就は1491年に54歳という若さでこの世の去りました。
結局、その戦いは次男坊である基家が引き継ぎで戦いを続けたそうです。
畠山義就の母親や子孫について
畠山義就の母親は、実はおめかけさん、遊女だったと言われています。
当時の時代では特にはじけた女性のようで、
自由奔放で異性関係にだらしが無かったとも言われています。
真相は解からずじまいですが・・。
という訳で実は「畠山持国の庶子ではないか。」と言われています。
今でいう隠し子的存在でしょうか。
畠山家は結局のところ、2分割される事になります。
争い続けた険悪な兄弟なので当然と言えば当然ですね。
要するに、義就側を総州、政長側を尾州としてその後別れていきました。
義就側の総州家は、重臣の木沢長政が目立つ様になり結局、長政側につく事になります。
しかし、その後に長政自身が戦い命を落とした後、総州家は消滅します。
その一方で、長政側の尾州家の方はというと、
1550年代に差し掛かり、畠山高政が頭角を現してからは、あの織田信長と戦いを行ったそうです。
時は流れて最終的には、長政の尾州家に関しては、幕末期に存在した畠山基永の子孫の方が代々いらっしゃるのでないか?と言われています。
政長との関係をリサーチ!
畠山義就と長政はいとこという関係です。
畠山義就の父親が持国、長政の父親が持富です。
こう見ると名前が似ていて若干ややこしいです。
畠山義就の母親は、遊女だったのでは?という言われがあり、身分が低い為に、当初は持国は後継者に弟である持富を抜擢していました。
しかし、なぜか急に気が変わったようで突然、庶子である義就を後継者へ選抜しました。
持富自身は諦めたそうですが、家臣達が納得しなかったそうです。
そして、結局は持富の子である長政と弥七郎を推薦する事になるというとても複雑な展開ですね。
その辺りからいざこざが始まったと言われています。
このいざこざが「応仁の乱」へと拡大していきました。
その後に受け継いだのは義就の方でした。
1457年に大和国で騒ぎが起きて、その騒ぎを鎮める事が出来なかった義就は、幕府より家督を政長へ譲る様に説得されました。
しかし、その要件を拒否し1460年から2年間の間、幕府と争いを起こします。
結果、争いに負けて逃走してしまうというお粗末な結果を引き起こします。
一方で、長政は、1464年以降、管領職に就く事になりました。
最後に
単なる暗記目的で学生の頃に勉強をしていましたが、
改めて歴史的な背景を探ってみると、
色々ないがみ合いや人生のいざこざがあり、別の意味で深いなと思いました。
いつの世も人間の欲深さは一歩間違えると恐ろしくディープなものに発展していくのだと改めて痛感しました。