市田ひろみ(いちだひろみ)さんという女性をご存知でしょうか?
お茶のCMで有名ですね!
着物の着付けをやっている事以外に、彼女が他に何をやっているかいまいち解らない人もお多いのではないでしょうか?
最近あまり見かけないのですが、市田ひろみさんは、今現在何をしているのでしょうか?
また夫や子供の存在も気になりますね!更に美容室についてもリサーチしたいと思います。
市田ひろみの今現在
市田ひろみさんは、京都に住んで70年以上らしいです。
現在も日本全国講演旅行で歩き回れる程の体力があるのは、学生時代にスポーツをして、鍛えてきたおかげだと言っています
今も現役でも着物教室や美容室で服飾評論家として活躍してる市田ひろみさん。
健康でいられるのも学生時代に運動をしていたこと、そして世界中を過去回っていた事ではないでしょうか?
そして市田ひろみさんがこれまで様々な人生を歩み成功されてきたのは、
- 彼女の行動力
- 彼女の笑顔
が多くの人を引き寄せるからだと思います。
夫や子供は?
市田ひろみさんは果たして結婚しているのでしょうか?
気になりますね。
ネットの情報を調べた限りでは、結婚はしていないようです。
市田ひろみさんほどの有名人であれば、結婚しているかどうかの情報も出てきそうですしね!
出会いも多かったかと思いますが、海外に出ることも多かったので、なかなか結婚まで踏み切れなかったのかも知れませんね!
もし子供がいれば、着物を子供にも教えていそうですね!
京都の美容室もチェック!
さて実は「市田ひろみ美容室」という美容室を今現在、経営しています。
メニューに着付けもしっかりあります。
市田ひろみさん自身は店に立っていないかも知れませんが、コンセプトは彼女の考え方に従っているかと思います。
隣の京都ホテルオークラの地下駐車場に3時間無料で止める事もが可能との事ですので、是非、利用してみましょう!
住所:京都府京都市中京区 河原町御池
詳細はこちらの市田ひろみ美容室のホームページよりチェックして下さいね。
プロフィール
市田ひろみさんのプロフィールについてまとめたいと思います。
1932年7月10日 生まれの85歳(執筆時)です。
年齢的にも関わらず、元気で若いですね!
星座は蟹座です。
職業は服飾評論家です。
大阪府大阪市大正区出身です。
血液型はA型です。
母は静子さん、父は恒五郎さんだそうです。
趣味は、映画だそうです。
大阪生まれの明るさ。そして、京都育ちの品の良さが特徴です。
父親の仕事の関係で、実は小学校の6年間を上海で暮らしたそうです。
幼少の頃上海に移り住み太平洋戦争中だった小学生時代父の仕事の関係で、上海で6年間を過ごしたそうです。
1945年、終戦で引き上げリュックひとつで帰国し、京都で暮らし始めたそうです。
帰ってくる時はとても大変だったようです。
上海から北京を経由して朝鮮半島を通り下関まで13日間かけて帰ってきたようですよ!
あらゆる財産を残してきたそうです。
上海に残された父の代わりに母が家庭を支えなくてはならず働く母の姿を見て育ったようです。
そこで母がした仕事が美容室だったのです!
その後、彼女は堀川高校を入学します。
高校時代は陸上部に入り、何度かインターハイに出場したこともありました。
ボーリングでも日本チャンピオンになった事もあったそうですね。
堀川高校といえば、長く音楽科が置かれたことで知られていました。
偏差値は67~72と今でこそ進学校ですが、1999年に「探究科」が設立され、国公立大学への現役合格者数を大幅に増やすなど「堀川の奇跡」として注目されました!
そんな高校を卒業した市田ひろみさんですが、地元にある京都府立大学短期大学に進学します。
経歴がすごい!
市田ひろみさんの経歴がまたすごく、まるでNHKの朝ドラのヒロインのようです!
当時では珍しく学校を卒業して就職を目指したそうです。
しかし、その当時まだまだ女性への門戸は狭かったようです。
10社受けて全て不採用だったようです。
やっと就職が決まったのが大阪にあるヤンマーディーゼル(本社は大阪市北区にあります。)でした。
そこで、技術部長の秘書として活躍して、有能と美貌を兼ね備えていたようです。
順風満帆に見えた市田ひろみさんですが、心の中では、OLとして一生終えるのは嫌だと思っていたようで、迷いが生じてきます。
そして、1956年にヤンマーディーゼルを退職します。
退職したきっかけですが、お茶の先生に勧められて映画の撮影所見学と称して見に行った事がきっかけでした。実はそれが、面接だったようです。
結局、その面接は合格という事になり、女優になることを説得され、彼女もその気だったようですが、親戚中から反対されたそうです。
しかし、市田ひろみさんの意思は固く、この時一大決心します。
そして、ついに1956年に大映に入社します。
1958年映画「手錠」でデビューします。
会社としては、市田ひろみさんを変わった個性で売り出しをしたかったようで、悪女役とかなど難しい役どころが多かったそうです。
また彼女自身のコンプレックスとして芝居が上手く出来ない。演技が下手であると自己嫌悪に陥り、デビューして3年で女優の道を諦めることになります。
大映退職後は、市田ひろみさんは、母親の下で修行を積み美容師に転職したそうです。
そして彼女の人生を大きく左右する転機が訪れます。
母の仕事を手伝っているうちに、呉服問屋の人に今度、着物教室を開くので、一緒に手伝ってもらえないかと誘われたそうです。
そして、1963年に着物の教室を開業します。
あるとき、大阪の心斎橋の大丸で着付け教室を開く事になったのですが、お父さんには言われた一言がきっかけで、
お客さんに対する接し方を考え直し、ただ一方的に話すのではなく、お客さん一人一人に語りかけるように話をしたそうです。
そして市田ひろみさんの才能はとどまる事を知らず、着物の着付けにとどまらずデザインなどにも携わるようになります。
1968年から行っていた世界の民族衣装の取材ですが、そのきっかけは、ある織屋さんに頼まれたヨーロッパに行って民族衣装を集めてきて欲しいと言われた事だったそうです。
その理由は、現地の民族衣装の模様を着物や帯にデザインして欲しいというのです。
さっそく行ったアテネのパルテノン神殿では、日本の着物が絹で出来ていることに現地の人は驚いたそうです。
海外に行ったことによって和の文化の素晴らしさを再認識したそうです!
その後は頻繁に海外に行くことになり、世界各地を一人きり45年間これまで100カ国以上、350以上の民族衣装を取材しに各国を渡ったそうですよ!
海外では、通訳もコーディネーターもなし、自分の足だけで、道無き道を歩き、収集してきたのだという。
まさに命がけで海外に何度も良きグローバルに活躍をし現地の民族衣装を研究します!
こう考えると本当に行動力のある女性だなと思います。
そして更に市田ひろみさんにまた転機が訪れます。
サントリーのCM出演の依頼が舞い込みます。この時、60歳でした。
京都弁とお茶が見事にはまった一度見ると忘れられないあのお茶のCMです。
「京都のおばちゃん」を等身大で演じ、全国に市田ひろみという名前が広がってききます。
その他にはミセスロイドのCMやローソンおにぎり屋のCMにも出ていましたね!
こうやってCMとしても有名になり、「お茶のおばさん」としても親しまれ、市田ひろみさんは一気に有名人となります。
そして本業も順調に業績を伸ばし、着物コンサルタントという地位も築いたのですが、もともと京都の土地柄もあってか出る杭は打たれ相当叩かれたそうです。
しかし、周りの協力や精神的な支えもあり、本来の明るい性格をばねにして乗り切ったそうです。
そして、なんと今まで40万人に着付けを指導していきます。
2008年の 洞爺湖では、G8サミット で日本文化を紹介しています。
最後に
OL時代や女優時代などを経て紆余曲折してきた人生でしたが、今後は今の時代に合う和の文化を啓蒙していきたいとか!
今後もお元気で活躍して欲しいと思います。