津田永忠のエピソードを紹介!子孫や墓は?世界遺産との関係も解説!

岡山平野と言えば米どころとして有名ですよね?

しかし、最初からあのような広大な平野であったわけでは無く江戸時代のある人物による功績により中国地方第1の平野とまでなりました。

その新田開発として功績の名高い人物が、津田 永忠(つだ ながただ)です。

偉大な事業を成し遂げた人物です。

特に彼の成し遂げた新田開発は神業ともいうべき仕事ぶりで、土木建築の天才といわれたのも納得できます。

また、岡山と言えば、桃太郎の国としても有名ですね!

そんな桃太郎のモデルとなったのも吉備津彦命をまつった吉備津彦神社の吉備津彦神社の再建にも携わっています。

これだけの実績を残した人物はあまりいないのではな無いでしょうか?

まさに岡山県が誇る偉人とも言えます!

今回はそんな津田永忠についてアプローチしていきたいと思います。

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プロフィール

津田永忠は1640年に出生します。

岡山藩主の補佐役として土木事業を行うなど、今の岡山県の生活の基盤を作り上げた人物として岡山県が誇る人物です。

津田永忠は岡山藩士で、池田光政、池田綱政の二代の藩主に仕えました。

彼の成し遂げた功績は非常に多く、数えきれないほどあります。

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エピソード

津田永忠が寝ずの夜の番をしていた時のことです。

藩主・池田光政が今何時だと津田永忠に尋ねたのですが?

津田永忠は、答えられなかったそうです。

彼は不覚にも寝てしまい、時計の時報を聞き逃してしまったのです。

その理由が居眠りをしていたからだというのです。

彼が16,7才の時だったそうです。

藩主はそのことについて責めず、逆に信用できる男だと思ったのだそうです。

人間には誰にもミスや失敗はあります。

それでも「ごまかさない」「うそをつかない」

とっさのときでもこのように対処した津田永忠の正直な気持ちが

池田光政は津田永忠は信用できる人間だ。

大きな仕事も任せられると思ったそうです。

この事はいつの世にも当てはまるかと思います。

会社の中でも調子のいいことばかり言う人は信用できませんよね?

自分が失敗した時は素直に非を認める事が大切だと思います。

大人になればなるほど、忘れてしまう事では無いでしょうか?

きっとこの若かりしころの津田永忠に惚れ込んだ池田光政の選択は間違いでは無かったと思います。

治水事業

津田永忠の行った治水事業として有名なのは、百間川の開削事業です。

岡山の城下を流れる旭川は、岡山藩初期において、毎年、旭川が氾濫し、甚大な被害に見舞われていました。

その原因は川が浅くなってきている為大雨などが降れば、たびたび災害をもたらしていた事が原因でした。

その為、津田永忠は、城下町の水害を防ぐために新たに百間川を作る事を計画し、成功を収めます。

このことにより、洪水被害から町や村を守ることができるようになりました。

この事は、彼の功績が大きいと言えるでしょう。

新田開発

当時は農業技術も今ほど発達しておらず、米作に適していたのは、県南の備前平野など、ごく一部だったようです。

そして領内の多くの部分が山地だった事もあり、津田永忠は飢饉を解消するためにも、農地が出来る土地を増やさなければならないと考えて新田開発がどうしても必要だと考えます。

そして三つの新田を開発に着手します。

三つの新田の広さは東京ドーム役500個分にもなるそうです。

特に沖新田は前述した百間川のお蔭で大きく貢献できます。

百間川によって排水ができるようになった河口に広がる沖新田の干潟の干拓を考案し、

かなりの短期間の速さで開発させています。

といいますのは全体を9つのグループに分けて互いに競い合わせたそうで、つぎつぎと新しい新田開発を行ったそうです。

現在の岡山平野の耕地は約25,000ヘクタールと広大な土地ですが、実は、そのうち約20,000ヘクタールはなんと干拓によって生み出されたから驚きです。

つまり、約5分の4が干拓によって生み出されたという計算になります。

まさに津田永忠のずばぬけた頭脳がこのような難しい難題をいかに効率よくクリアしたかが解ります!

藩政初期の津田永忠による新田開発が行われた事により、著しく、農業は発達し、今日の岡山の土台の基礎となっていきます。

これは実社会においても参考できる部分ですね!

まさに岡山の今の平野があるのは、津田永忠の功績によるものですね。

閑谷学校

津田永忠は郷校である閑谷(しずたに)学校を設立して士庶の教育に情熱を注ぎます。

この学校は日本で最も古い庶民の為の学校で、350年の歴史があります。

1670年に岡山藩主、池田光政の命によって建てられました。

この『閑谷学校』の講堂が国宝に指定されています。

庭には、秋になると紅葉を見ることができるそうですよ。

当時も紅葉を見ながら勉強をしていたのでしょうか?

今も昔も紅葉は人の心を和ませます。

この地に立つと当時の様子が浮かんできそうです。

岡山後楽園

後楽園と言えば東京の後楽園が有名ですが、岡山にも後楽園がある事をご存知でしょうか?

池田綱政が自らのやすらぎの場所として津田永忠に築堤を命じたようです。

当時は後園、御後園と呼ばれていたらしいですよ。

岡山後楽園は日本三名園に数えられるそうです。

三名園は石川県の「兼六園」と茨城県の「偕楽園」、そして岡山県の「後楽園」です。

紅葉の時期は岡山城とのコラボが見事で、沢山の観光客が訪れています。

当時は大名仲間にも評判だったようですよ。

明治になると、名園保存を目的に岡山県に譲渡されました。

今は岡山市民の憩いの場となっていて、ライトアップされた夜の後楽園も楽しむことも出来るので、幻想的な雰囲気を楽しむのも良いかも知れません。

世界遺産

そんな岡山を誇る津田永忠の残した業績の数々を世界遺産にするという動きがあります。

これだけの功績があるので世界遺産も不思議ではありませんね。

是非、世界遺産となって日本の天才土木家である津田永忠のすごさを世界にアピールしたいですね。

特に日本本最古の庶民教育施設である閑谷学校や日本三名園の一つ後楽園は、世界遺産の名に恥じる事は無いでしょう。

津田永忠の

そんな沢山の功績の遺してきた津田永忠は、1707年3月8日に68年の生涯を終えます。

「津田永忠墓」は、津田永忠の妻子の墓などもあります。

和気町吉田奴久谷の山の中腹にあり儒教様式の墓地だそうです。

JR和気駅から車で約10分、山陽自動車道和気ICより車で約15分の所にあるそうです。

子孫について

永忠には6男4女がいましたが、結局三男永恭が永忠の跡継ぎとなりました。

四男永倫にも300石を与え、分家を立てさせたようです。

さてその後の津田永忠の子孫については詳細はつかめませんでした。

しかし、津田永忠の偉業はきっと、我々の子孫にもずっと語り継がれるでしょうね。

最後に

津田永忠は岡山の天才といわれた人物です。

彼の事業は土木事業をはじめ学校を作ったりと様々でした。

干拓事業の結果、岡山平野は肥沃な土地に生まれ変わり、農業が発展しました。

津田永忠の行った業績が世界に認められ、世界遺産となってほしいですね。

今回は岡山県誇る職人技であるの津田 永忠について解説しました。

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